ヴァン・デル・スワールメン

①ヴァン・デル・スワールメンとは
 ベルギーの造園家、都市計画家。1883-1929。
 ルイ・マルタン・ヴァン・デル・スワールメン (Louis-Martin VAN DER SWAELMEN)は、1883年にブリュッセルのイクセルにて造園家ルイ・レオポルド・ヴァン・デル・スワールメンの一人息子として生まれた。ブリュッセル王立美術学校でデッサン等を学んだ後、画家、そして庭園の設計を中心とする造園家として出発し、徐々に都市計画や地方計画に興味の中心を移していった。第一次世界大戦前に「ベルギー景観、天然記念物及び文化財保護協会連盟」の副会長を務めた。1914年にソワーニュの森の散策案内を風景画家のストヴェンスと共著で出版した。戦争中はオランダに避難し、オランダ・ベルギー公共技術委員会を仲間と設立し、戦後のベルギーの都市復興の準備を行なった。1916年、都市計画に関して初めて原著がフランス語の書物とされる 『公共技術序論)』をオランダのライデンで発表する。戦後に帰国し、1919年に建築・都市計画雑誌『ラ・シテ』をヴォルウイルゲンと共に創刊した。同年にベルギー都市計画家協会1923年からはベルギー近代都市計画建築家協会を設立し、1927年まで会長を勤めた。低廉住宅公社やベルギー市町村連合に協力し、学術研究会議や講演会を通じて計画理念を構築、提案したり、競技設計の審査員など重要な役割を果たした。1920年からは自らも田園郊外の計画、設計を行った。1927年に国立のカンブル装飾美術大学で都市計画学と造園学を担当する初めての教授として就任した。1929年に46歳で逝去した。

②田園都市(郊外)計画
 彼はベルギーでの田園郊外の計画の内、6ヵ所の敷地計画に参加し、植栽計画や公園設計も行なった。クライン・リュスランド以外の5ヵ所はブリュッセルの都市圏に位置する。それらの中から、ヨーロッパで最も重要な田園郊外とされる)ブリュッセルの2例と、唯 一ブリュッセル外に位置するクライン・リュスラントの計3ヵ所の概要を述べる。

田園都市(郊外)ル・ロジ 緑色で統一。 田園都市(郊外)フロレアル 黄色で統一。

③ロジ-フロレアル
 ル・ロジとフロレアルはブリュッセル中心部から南東に6㎞ほどの所に隣接して位置し、所在する自治体はブリュッセル首都地域内のワーテルマール=ボワフォールである。開発主体はル・ロジ-フロレアル借家人協同組合である。現在の戸数は、ル・ロジが1,278戸(内747戸が1940年以前に建設)、フロレアルが785戸(内560戸が1940年以前に建設)の合計 2,063戸である。その内、個人に売却されたものがル・ロジでは214 戸(約17%)、フロレアルでは71戸(約9%)となっている。それ以外は協同組合の所有である。ル・ロジとフロレアルは1921年に同時に計画された。ル・ロジはCGER金庫の従業員グループにより設立され、勤め人を対象としている。フロレアルは印刷工を主な対象として設立された。2つの組合はそれぞれ管理組織を持っているが、重要な決定は同じ路線でなされた。2つの組合は低廉住宅公社の規約に認められた借家人協同組合である。合意による重要な実行、運営管理の決定は年次総会によってなされる。敷地計画はヴァン・デル・スワールメンが行い、エグリックス他3人が建築に関わった。現在の面積は約80ha(計画の初期は約35ha)でスーヴラン通りに沿って約2kmにわたる。ル・ロジは台地上に、フロレアルは台地の北東斜面にある。起伏のある地形を活かし、歩行者専用路や共同庭、小公園が巧みに配され、ピクチャレスクな空間をもたらしている。敷地計画は地形をもとにしたいくつかの部分ごとに、数十戸単位でまとまった街区計画がなされており、その道路網の形から「三角形」、「じょうご」、「台形」等の名前が付けられている。 道路沿いにはキヅタ、サクラ、プラム、ポプラ等が植えられ、衝立て状に仕立てられたボダイジュが住宅ブロックを結んでいるなど植物が豊富に取り入れられている。正面の庭に沿った小道は住宅ブロック内や休憩や遊びのために整備された小広場へ続いている。中心部には中央の塔が貯水塔となった「蹄鉄」と呼ばれる馬蹄形のシンボル的な10階相当の高層建築があり商店が10店と住戸が36戸入る。これは建築当時ブリュッセルで最も高い住宅であった。住宅はイギリスのコッテ-ジ(田舎家)より着想している。デザインは装飾を極力除きシンプルなものとしている。建物は豊富な植物で飾られる。アパート形式から4寝室の住宅まで数種類が用意されている。窓枠やよろい戸が緑色に塗られたところがル・ロジ地区、戸と枠が黄色に塗られたところがフロレアル地区である。最初は伝統的建築材料が用いられた。フロレアルではコンクリートも実験的に用いられた。

④クライン・リュスラン
 クライン・リュスラントは、ブリュッセルから北西約55㎞のヘント)やオランダ国境に近い、運河と鉄道に挟まれた細長い工業地帯に位 置する。開発主体はゼルザーテ低廉住宅協同組合である。運河沿いの工業地域に勤める労働者を対象に建設された。しかし協同組合の運営委員会は、自治体や州、国の議員や工場経営者で構成されていたため、ブリュッセルにおける田園郊外のように住民が直接運営に参加することは出来なかった。1921年より建設が始まった。320戸の建設が予定されたが、171戸の住宅と31戸の独身者の宿泊所、計202戸が建設された。その後建設は続行されていない。ヴァン・デル・スワールメンが敷地計画を、オスト)が建築を担当した。面積は約23haである。中心部に広場を設け、南北に細長い緑地帯が延びる。共同庭や小広場を配置し、その間を巡る通りや路地を短く屈折させることでパースペクティブに変化をつけ、平坦な地形により生じる単調さを解消している。建物はレンガ不足から主にコンクリートが用いられた。